評論 第42回 2000年6月15日

国家の正統性の衰滅

大半の人びとは、自分が生活を送っている国家に対して寛容であり、政府にたてつくような真似はせずにすむように生きている。彼らが国家を熱狂的に支持するというようなことはめったに起こらないが、公然と反乱を起こすというようなこともまた、めったには起こらない。彼らは、政府が法案を通すことを、税金をかけることを、警察活動を行うことを受けいれている。それらのことを受けいれているという事実が、国民(ポピュレーション)による国家の正統化ということの意味である。

しかし、正統化のあり方は一定不変ではない。正統化の程度は相対的に高いときもあれば、相対的に低いときもある。現実的観点から、五百年ほどにわたる近代世界システムの歴史を見るならば、国民(ポピュレーション)による国民的(ナショナル)な政府の正統化の程度は、長らく上昇傾向にあった。これはひとつには、国家構造が強力になるにしたがって、国家が、人びとの望むことを、より多くなしうるようになったからであり、さらにいまひとつには、指導者の選択過程に参加しうる人びとを増やす方向での政府構造の変化の帰結として、一般の人びとが政府の権威を、少なくとも部分的には自分たちの利害に応じたものと考えやすくなってきたことによるものである。

過去にもしばしばあったように、今日、正統性が崩壊してしまったように思われる国家は、一つならず存在する。政府を正統と考える者など誰もいないように見えるようなことさえある。今現在で言えば、シェラレオネが、ちょうどその例にあたるかもしれない。あるいは、それほど昔ではない過去で言えば、レバノンといったところだろうか。また、非常に大きな集団が、政府の正統性に対して活発に反抗しているというような場合もある。そのような状況は、内戦と呼ばれることが多い。今現在で言えば、スリランカないしはコンゴが、ちょうどその例にあたる。明らかに言えることとして、その国家の経済的地位が弱体なために相対的に政府予算が小さい場合、その政府は国民(ポピュレーション)の必要に応えうる能力を持ち得ない可能性が高く、したがって国民(ポピュレーション)による正統化をうけられない可能性が高い。このような状況は、搾取の対象となるような、なんらかの鉱産資源などが豊富にあるような場合、さらに悪化する。というのも、その場合、私的な利益を追求するマフィア的組織にとって、国家構造の支配権を掌握することが利益にかなうことになりうるからである。

しかしながら、このようなことは世界システムの周辺地域に属する諸地帯に限られた問題であると考えるとしたら、それは大きな誤りである。この問題は、世界システムの作用に対して、はるかに広範で深刻なものである。世界システムの富裕地帯においても、国家の非正統化が進む傾向は観察できる。たとえば、投票率の低下、納税忌避の増加、治安システムの私営化といった多様な現象にそのパターンは現れている。そして単に個別特定の政治的不満のためではなく、全般的態度として、国家の正統性に反抗するような集団が成長してきていることが、そのパターンの現れであることは言うまでもない。

この構図を理解するには、すぐれて「長期持続(ロング・デュレ)」の観点に立たなければならない。近代世界システムの初期、すなわち十六世紀においては、諸国家は一般にきわめて弱体であり、一般に極めて正統性の低い存在であった。絶対君主はさまざまな意匠で登場したが、その目標は、きわめて頑強な抵抗を示す地方豪族および臣民に対して、自らの権威を布告することにあった。その目標の達成度はまちまちであった。国家は、最低水準の正統性を創出するために、ナショナリズム的な感情をその紐帯として用いるようになった。

このようなナショナリズムという紐帯は、フランス革命以降の時代になって初めて、しっかりと確立されるようになったものである。状況の転換に際して決定的な要素となったのは、主権在民という概念の登場である。ひとたび、この考え方が広範に普及すると、人びと(ピープル)は国民(ネーション)であるということになり、そしてその国民(ネーション)は国家の支持構造となった。国民(ネーション)は、天から降ってきたわけではない。それは創出されたのである。国家と知識人は、国民(ネーション)の創出を目指して努力を傾けた。最も効果のあった二つのメカニズムは、初等教育と兵役であった。概して国家の圧力によって、ゆっくりと、一言語(ないしは、ある語族中の一変種)が支配的になる傾向を示すようになった。愛国主義が、国民生活の理想(ライトモチーフ)となった。

しかしながら、十九世紀には大きな問題があった。資本主義的企業の拡大が、国民(ネーション)の内部の亀裂を深めていたのである。マルクスは、これを「階級闘争」と呼んだ。イギリス保守党出身の首相ベンジャミン・ディズレイリは、これを「ふたつの国民(ネーション)」と呼んだ。問題をどのように定式化するかはさておき、現実として、国家構造の正統化の企図(プロジェクト)は危機に瀕していたわけである。興味深いのは、右翼と左翼の両勢力がともに──一致して行動したのではなく、互いに平行するかたちで──この亀裂の克服に努力したということである。右翼勢力は、繰り返して外敵に対する国民(ネーション)の統合を強調した。これは、ある程度までは、うまくいった。

左翼勢力は愛国主義的好戦主義にかかわる気などなかった。そのかわりとして、彼らは、彼ら大衆勢力が自ら国家構造をコントロールすることの重要性を強調した。もしそれが実現すれば、政権についた大衆勢力は、世界を──ないしは、より明確に言えば自分たちの国(ネーション)を──変革することができるという展望を示したのである。これによって、長期的な希望というものが提供されることになった。大衆運動は、その運動に従う者たちに根本的な変革を約束した。その変革の代価は、現在における政治的動因および闘争への参加であり、その報酬として、将来に、よりよい世界が与えられることになっていた。これによって、大衆運動の支持者たちが、ひとたび国家を自分たちの手中に収める(あるいは、まもなく収めるというところまでくる)と、彼らはその国家を根本的な変革のためのプラスの力であると考えるようになるという効果が生じた。つまり、彼らは国家を──少なくとも、運動が政権にある国家ならば──正統化したのである。

このように、愛国主義を志向する右翼的圧力と、自分たちが支配する国家に対する信頼を求める左翼的圧力とにはさまれて、世界中で、国家に対する信頼が高まった。そして国家は、それによって、より多くの財源を手に入れることが可能となり、より多くの便益を提供することができるようになった。それは雪ダルマ式の過程であった。二十世紀は、正統性の長期的向上をもたらしてきた過程の解体の世紀であった。戦争による莫大な人命の損失によって、愛国主義的好戦主義の魅力は色あせ始めた。また大衆運動が政権を獲得したにもかかわらず、彼らが約束したような世界の変革を行うことに失敗すると、社会変革 のメカニズムとしての国家への投資が持つ魅力はやはり色あせ始めた。

過去三十年間、いたるところで、国家に対する投資の引き揚げが確実に進行している。これは、右翼的なディスコースによってなしうることでもあるが、左翼的なディスコースによってもなしうることである。前者は、個人的活動への国家の介入を制限するという言い方を、後者は、強力な利害関係と癒着している国家から良いものなど引き出せるわけがないという懐疑的立場から、中央政府に対して地方の権利を唱える言い方を行う。だが、言葉遣いがどうあれ、その帰結は、国家の──あらゆる国家の──正統性の低下である。そして、それにともなって、国家はその責務を遂行する能力を低下させていく。それは、 国家についてのさらに否定的な見解を、ますます正当化することになる。かくて、投票率は下がり、納税の忌避が生じ、警察への信頼は失われるのである。

その行きつく先は、信頼ではなく恐怖の空気である。そしてこれは、他の集団に対して敵対的なかたちで組織された自衛集団を生み出すことになる。自世帯や自分のまわりの諸世帯のまわりに防衛的障壁を築こうとする、いわば「鉄条網コンプレックス」とでも言うべき心理の拡大は、いたるところに見られる。それは、騒乱の時代の到来を意味するのもである。ことはシェラレオネに限らないのだ。

イマニュエル・ウォーラーステイン

Immanuel Wallerstein, "The Decline of State Legitimacy," Commentary No. 42 (June 15, 2000). http://fbc.binghamton.edu/42en.htm

著作権(2000年)
原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。

翻訳/山下範久
編集/安濃一樹

目次へ