評論 第91回 2002年6月15日

対話の前提 力と抗争 平和への道

政治は国家の政策をめぐる戦いである。この抗争に終わりはない。現代の世界では、投票で多数派の意見が通るように決着をつけるのが望ましいと考えられている。個人や団体がさまざまな見解を持ち、自分たちが支持する政策の長所を主張しあう。それぞれの目的を追求するために、彼らがどれほど堅い決意で挑むか(資金や威信や権益をどこまで賭けるか)によって結果が大きく変わる。このことは誰もが認めるだろう。こうした協議や論争が剥き出しの暴力に訴えることなく行なわれるとき、その国は安定していると認められ、民主国家とも呼ばれる。

政策をめぐる論争は過熱することが多い。当然のことだ。政治というゲームの基本ルールが争点となるからだろう。政策を決める過程に誰が参加するのか。政策の対象とする範囲はどこまでか。ある地域の土地と財産を所有し、相続するのは誰か。このような戦いを「体制をめぐる抗争」とよぶことにしよう。

抗争をまねく状況はさまざまで、みな性質が異なる。国内で政治的(さらには経済的・社会的な)権利を疎外されている「少数派」がいる。(人口の上では多数派かもしれない)彼らが体制を変えようと戦う。土地や国境をめぐり永年にわたって抗争することもある。過去20年間に世界の注目を集めた抗争をいくつかリストにあげてみよう。

○インドとパキスタンのカシミール抗争【1】
○南アフリカの人種差別抗争【2】
○北アイルランドの抗争【3】
○チェチェンの抗争【4】
○イスラエルとパレスチナの抗争【5】
○チアパスとメキシコの抗争【6】
○南スーダンの抗争【7】
○クルド民族とトルコの抗争【8】
○バスク民族とスペインの抗争【9】
○東チモールとインドネシアの抗争【10】
○コソボとセルビアの抗争【11】

まったく異なる背景を持つこれらの抗争には共通する二つの特徴がある。暴力が行使された時期があること。対立する勢力の一方が現状の体制を守ろうとし、他方はそれを大きく変えようとしていること。

言うまでもなく、抗争の状況はまったく違うけれど、あえてこのリストを作ったのには理由がある。それぞれの抗争には「弱者」と「強者」がある。しかし世界の世論が結束して、どちらか一方を支持することはない。イデオロギーが必ず弱者に味方するわけではなく、他国からの支援が強者ばかりへ送られるとは限らない。私はこの事情を明らかにしたかった。

コソボを支持した人びとがいる。彼らはバスク人を支持しないかもしれない。南スーダン人を支援しても、パレスチナ人へは理解を示さない。もちろん、人びとは自分たちが矛盾しているとは思わない。抗争にはそれぞれ固有の背景があり、[弱者が守られるべきだという]倫理観を一様に当てはめることはできないと主張するだろう。

抗争は、対立する勢力がたがいに投げかけ合ってきた言葉の歴史でもある。それを振り返りながら、さらなる共通点を探してみたい。抗争の背後にある怨恨は、遠い昔の出来事を起源としていることが多い。ある集団が征服された。追放されたこともあった。彼らの土地が略奪された。悲劇はなぜ起きたか。彼らの集団が征服者の集団よりも弱かったからだ。征服し追放し略奪した過去の行為が政治構造を形づくった。これが弱い集団の権利を奪い、(征服者の宗教や言語を強制して)文化の崩壊を促した【12】。こうした政治構造が怨恨を生むことも多い。

抗争を彩る言葉の歴史はおよそ次のように進んできた。

<第1段階> 強い集団はあらゆる面で優れ、弱い集団の文化は劣っていると主張することによって、強い集団が政治構造を正当化する。

<第2段階> 弱い集団が団結して、強い集団の偏狭な言葉に対抗し、より「平等な」政治構造の実現を求める。

<第3段階> 強い集団が弱い集団の要求を無視するために、制度上の改革を目指す政治交渉が閉ざされる。

<第4段階> 弱い集団から暴力行為をはじめる分子が現れて、世界が抗争に気づく。

第四段階まで進むとき、強力な外部勢力の支持をえて、それをつなぎ止めることが政治活動の一部となる。そのため、強い集団は弱い集団の暴力がいかに不正なものであるかを訴え、その暴力に譲歩するという前例など作るわけにはいかないと言い切る。強い集団は「平和」を導く対話の「前提条件」として、暴力行為を止めるよう要求する。弱い集団は、暴力行為がなければ自分たちは無視されると応える。「政治的な」解決策を探る対話だけが暴力に終止符を打つ、と彼らは主張する。Impasse! 行き止まりだ。

第四段階に入った抗争は誰の目にも明らかである。

インド政府は要求する。
──パキスタンがインド領に潜入する者たちを取り締まれ。

南アフリカの人種差別政権は拒否する。
──アフリカ民族会議が暴力行為を自発的にやめるまで、ネルソン・マンデラを釈放しない。

北アイルランドのプロテスタントは訴える。
──交渉を進める前にIRAが武装を解除しなければならない。

ロシア政府は断言する。
──チェチェンの反乱軍兵士はみな犯罪者だ。

シャロン首相は言い切る。
──テロ行為が一切なくなるまでパレスチナ自治政府との交渉に応じない。

メキシコ政府は主張する。
──治安を回復するためにチアパス州を占領するのが先で、交渉はその後だ。

スーダンのハルツーム政権は説く。
──南スーダン人は武器を捨てるべきだ。

トルコ政府は同じことを[国内の]クルド人に促し、スペイン政府はETAをテロリストと非難する。インドネシア政府は東チモール人に残忍な弾圧をくわえ、セルビア人はコソボの反乱を鎮圧するために軍隊を送る。

もう一度いう。私は、読者が「弱者」の集団だけを支持するとは思わない。「強者」の側を、ある抗争では支持し、他の抗争では厳しく批判するだろう。私も同じだ。しかし、これらの抗争が構造的に著しく似ていること、すべての抗争で対立する勢力がまったく同じ論争をしていることに注目しなければならない。対立するどちらの側にも「穏健な人びと」がいて、「妥協」による政治解決を望んでいる。同時に、どちらの側にも「妥協を拒む人びと」がいる。彼らには完全な勝利か破滅しかない。この急進派は、自分と同じ側にいる穏健派との戦いにエネルギーの大半を傾ける。あるいは、暴力をタイミングよく使って、[穏健派が進める]交渉を妨害する。

[現在もつづく]九つの抗争は互いにそれぞれ異なる。もし解決策が見つかるとしたら、それは一つ一つ違うものとなるだろう。しかし、抗争はみな等しく、力と権利をめぐる戦いである。すべての抗争で暴力が使われている。現状の体制を維持しようとする人びとによる暴力があり、現状を改革しようとする人びとの暴力がある。そして、政治解決だけがすべての抗争を終わらせる。

「テロリズムとの戦争」が、弱者の集団に暴力の行使をやめさせるための戦争だとしたら、それは風車に槍で戦いを挑むドンキホーテのようなものだ。もちろん、現状の体制を維持しようとする側が十分な力を持っているなら、しばらくは弾圧に成功するかもしれない。しかし、それも束の間である。抵抗する組織が完膚なきまでにつぶされることも当然あるだろう。だが、代わりとなる他の組織が出てくる。政治的な歩み寄りが実際になされたときには、より穏健な組織が支持をえるだろう。譲歩がなかったときには、より残虐な組織が台頭する。

こうした抗争の終りは、いつの時代にも政治がもたらした。武力がそうしたのではない。この事実をわたしたちはぜひとも認めなければならない。抗争の終結期、つまり第五段階は(たとえば独仏間のアルザス・ロレーヌ地方をめぐる抗争がそうだったように)今では歴史の逸話として伝えられている。これが、対立する双方が学ぶべき政治の教訓である。それでも、政治解決には必ず暴力が伴う。抗争のどちら側も暴力を行使する。あらゆる重要な問題をめぐり暴力が生まれる。これは避けられない。

政治を云々するときは道徳を脇において、ずばりとものを言うほうが役に立つかもしれない。譲歩や妥協はかならず痛みをともなう。その痛みは今の世代が分かち合い、自分たちの代だけに留める。やがて痛みは癒されて、まだ生まれていない次の世代は過去の痛みを思い浮かべることさえない。譲歩とはそうあるべきものだ。こうした政治解決こそが永年の平和をもたらす唯一の道である。

イマニュエル・ウォーラーステイン

Immanuel Wallerstein, "Prerequisites, Power, and Peace," Commentary No. 91 (June 15, 2002). http://fbc.binghamton.edu/91en.htm

【1】ヒンズー教を主流とするインドと、イスラム教を主流とするパキスタンは、1947年にイギリスからそれぞれ独立した。ヒマラヤ山脈西側のカシミール地方はイスラム教徒が八割を占める。しかしヒンズー教徒である地元王家はインドに帰属することに決めた。これがその後の紛争の原因となる。国連は住民投票によって帰属を決めるよう求めたが、インドは拒否している。現在までに三度の印パ戦争が行なわれ、今も対立が続く。

【2】永年にわたって南アフリカの黒人は分割・支配されて いた。白人政権が黒人を隔離した土地は全国土の14%に過ぎず、農作に適さない不毛の土地で鉱山資源もなかった。1989年に政府は隔離政策を改める方向に転換し、91年、アパルトヘイト法が廃止された。94年、全人種の参加する選挙が行なわれ、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラ議長が大統領に選出された。しかし、貧しい黒人・豊かな白人の基調は今も変わっていない。

【3】ケルト人が住むアイルランドは、17世紀に英の植民地となった。1921年に英連邦の自治領となった。しかし英からの移民が多い北アイルランドでは危機感が高まり、プロテスタント系住民(イギリス人)がカトリック系住民(ケルト人)に武力を行使した。これに対抗してIRA(アイルランド共和軍)が確立し武力衝突を繰り返した。49年にアイルランド共和国となった後も、北アイルランドはイギリス領として残った。その後も厳しい対立が続き、30年間に3000人が死んだ。90年代に入って和平への模索が続き、昨年IRAが武装解除を始めたとされる。

【4】チェチェン人は、古代からカフカズ(コーカサス)山脈で生きてきた民族のひとつ。独自の言語をもつ平和な民であったが、19世紀以来ロシア人の侵入をうけたため抵抗を始めた。1943年ごろスターリンの政策で中央アジアに強制移住させられた時、人口の半分が死んだといわれる。57年に「名誉回復」で、もとの土地に戻り自治共和国を再建した。ソ連の崩壊にともない91年に完全独立した。エリツィン大統領はこれを認めず軍隊を送ったが、ロシア軍は敗退した。その後もロシアはたびたび侵攻し、100万人の人口をもつチェチェン人の一割を殺したといわれる。

【5】19世紀以来、ユダヤ人国家をどこかに樹立しようという運動があり、一九四八年に祖先の地とみなすパレスチナ周辺にイスラエルが建国された。その結果、この地域のイスラム教パレスチナ人が難民となった。この時の第一次中東戦争に始まり、1973年の第四次中東戦争までイスラエルとパレスチナとの戦争が繰り返された。93年にオスロ合意が成立し、ヨルダン川西岸地区とガザ地区でパレスチナの暫定自治が行なわれるようになったが、実質的にはイスラエルによる植民地支配が続いている。昨年9月11日の事件以来、イスラエルはパレスチナ自治区で激しい軍事行動を続けている。

【6】メキシコ最南端、ユカタン半島に近いチアパス州で、国際資本による搾取・環境破壊に苦しんでいるマヤ系先住民の運動を先導して、1994年にサパティスタ民族解放軍(EZLN)が蜂起した。メキシコ政府がさまざまの弾圧を加えたが、EZLNは抵抗を続け、政府も交渉に応じざるをえない状況になった。2001年2月、EZLNは首都メキシコシティーにむけて「尊厳のための行進」を行ない、複数の司令官が覆面姿のまま国会で演説した。EZLNは単なる地域の独立運動にとどまらず、反グローバリゼーションの理念をかかげる。

【7】もともとスーダンが英の植民地となるときに、北部のアラブ人と南部のアフリカ人とを統合したことが対立の遠因になっている。1956年に独立後、アラブ系のスーダン政府は次第に独裁色を強め、北側が南を弾圧する構造となった。これに対し南側はスーダン解放戦線(SPLA)を結成して抵抗した。その後ソ連が南を援助したため、北側政府は崩壊した。89年のクーデターで再びアラブ系の独裁政権が誕生し、今度はCIAが南を支援した。その後も混乱が続き、100万人が餓死したと伝えられる。

【8】トルコ・イラン・イラク・シリアの国境が接する山岳地帯「クルディスタン」に2000万人〜3000万人のクルド人が住む。宗教は大半がイスラム教で、一時列強がクルディスタンの独立を約束したこともあった。現在は居住地が各国に分断されているため、それぞれが独立運動を進めている。1984年にトルコ政府は米の援助を受けて国内のクルド勢力を全面攻撃し、死者が3万7000人を超えた。トルコのクルディスタン労働者党(PKK)は党首が死刑判決を受けるなど、政府と鋭く対立している。

【9】スペインとフランスの国境であるピレネー山脈の周辺はバスク地方と呼ばれ、60万人がバスク語を使う。フランコ独裁下のスペイン政府が独立を要求してきたバスク人を弾圧したため、「バスク祖国と自由」(ETA)が組織された。1980年に自治州が成立したが、ETAは完全独立を求めて活動を続けている。97年には、スペイン北部のサンセバスチャンで2万人を超えるデモが行なわれた。

【10】16世紀にポルトガルが東チモールを植民地化し、オランダが西チモールを領有した。1945年にインドネシアが独立した後も、東チモールはポルトガル領として残った。やがてポルトガルが植民地の解放を宣言すると、東チモールでは社会主義傾向の強い政党が力を持っていたため、脅威を感じたインドネシアが介入し、軍隊を送りこんだ。社会主義勢力の伸張を望まない西欧諸国はこれを黙認した。インドネシアは東チモールの併合を目ざし、20万人を殺したという。紆余曲折の後、今年5月20日に東チモールは独立した。

【11】ソ連の崩壊にともない、旧ユーゴスラビア連邦内の各民族が独立を主張し、新ユーゴ連邦など大きく五つの国に解体した。コソボ自治州は、新ユーゴに属するセルビア共和国の南部にある。人口の九割をアルバニア(イスラム教)人が占めるため、セルビア(セルビア正教)からの独立を求めてきた。しかしセルビア側はコソボが祖先の地であると譲らなかった。1992年、アルバニア系住民がコソボ共和国議会を開き大統領を選出したが、セルビア側はこれを違法とした。このためコソボ解放軍(KLA)が活動を始め、98年にユーゴ(セルビア)のミロシェビッチ政権がコソボを攻撃した。コソボの人口200万人のうち約半数が難民になったと伝えられる。このユーゴ国内の内政問題に対し、99年に安保理の決議を経ずNATO軍が介入し、ユーゴ軍を攻撃した。2000年ユーゴのミロシェビッチ大統領は選挙に敗れ退陣した。

【12】1910年から45年、朝鮮を占領した日本は暴力と強権によって朝鮮文化の根絶を進めた。朝鮮の人民に日本名を強制し、学校や職場で母国語の使用を禁じた。また人民をすべて神道に改宗させている。19年3月1日の独立運動を日本は徹底的に弾圧し、多くの学校や教会・寺院を破壊した。死者は数千人、傷害と逮捕拘禁は数万件を数えた。

著作権(2002年)
原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。

( )は原文の挿入語句。
[ ]は訳文の補助語句。
【 】は訳者による注釈。

訳/安濃一樹・別処珠樹
ヤパーナ社会フォーラム

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